ジャーナリング 再考

「ジャーナリング」という行為の意味や価値が、やはりまだ理解されていないのかもしれない。これは、身体的に理解される性質のものなので、なかなかやっかいだ。

(1)まず大切なのは、じぶんにとっての価値。これは、フィールドノートの価値である。現場で見たこと・聞いたことなどを記録しておくこと。そして、感情的なことも書き留めておく。これは、定性的調査の基本なので、日々の記録はとにかく習慣化する。(当然のことながら、「書くこと」は自己制御につながるので、感情を整える意味でもジャーナリングは心身に直結している。)

(2)つぎにコミュニケーションのためのメディアとしての価値。選択的であっても、日々の思考の流れを外に開くことによって、コミュニケーションが生まれるきっかけになる。SNSの闇はいくらでもあるが、それはユーザーが使いこなせていないだけであって、本質は「相互参照」と「メンション」。お互いを監視し何かを確認するのではなく、他者を認め(見留め)て守り合うこと。

「研究会」という文脈でいうと、そもそも教員(=加藤)とのコミュニケーションがないなら、その学生にとっても(教員にとっても)「研究会」が必要なのかどうかわからなくなる。学生どうしのコミュニケーションについては、教員は把握しなくていいし、そもそも把握することはできない。
(1)と(2)は、ことなる性質なので、潔く切り分けてもいいし、多少の調整さえすれば重複していてもいいと個人的には考えている。

Scrapboxは万能ではない。まぁ気軽に書けるからよいと思っている。Slackへの通知が頻繁に届くので…みたいなことを言う人もいるけど、それはたんにユーザーのリテラシー/行動の問題。channelから離脱するだけで通知は来なくなる。通知がないとチェックしないというのも、個人の情報行動の話。(日々、ニュースやさまざまな情報をどうやって取得しているかという習慣の問題なので、通知が来なくてもScrapboxを見に行けばいい。現に、ぼくはしばらく前にあのchannelを抜けた。)
いままでのBlog的なもののほうがいいという声もあるけど、自覚的にジャーナリングをしていたのはごく数名。大部分の学生は、それほど実行していたわけではない。

ここで問題になるのは「自己開示」の問題。加藤研のメンバーしか読まないという時点で、すでに限定的なのだが、そのなかでも公開してもいいと思える/思えないという判断はあるはず。あるいは、教員(=ぼく)とだけ共有したいという内容もあるかもしれない。上述のとおり、学生どうしということなら「研究会」という文脈をこえて、いろいろなコミュニケーション方法があるからいい。ポイントは、「完全にじぶんだけに閉じておくべき内省的な内容(=日記など、一人用のジャーナリング)」と「学問的(ときに人生やキャリアにかかわる)な問題意識としてメンバーや教員に開いておくとよさそうな内容(=これが、加藤研でいう(狭義の)ジャーナリング」をどのように考え、実践するか。メディア、プラットフォームは、「じぶん」と「共有したい相手」の双方にとって使いやすいものがえらばれることが重要なはず。
「研究会」の本質として大事なのは、学問的な関心を共有している人が集うという点。お互いを必要としているという実感がなければ、わざわざ集まる必要はない。

コメントを残す